高 佳音

1:1でつくる

Italicized CMU


現代の、しかも先進国において1:1で制作する(*1)ということは、暇つぶしなのか、趣味かある種のフェティッシュか、反消費主義的立場からか(しかし森に行って木を切り倒しでもしない限り、流通している材料に頼らざるをえないという矛盾もある)。模型ではない1:1の制作は、手短に言うと「糊で接着できないこと」かも知れない。つまり、ものには圧倒的な重さと材料の特性が備わっており、そこに自分の身体のキャパシティという制限がかかり、それを超えるには然るべき道具と機械が必要となる。
言い換えると、多くの建築教育の場で模型や図面などのアナロジーとして抽象化された表現方法によって制限されてきたことが「実際のもの」としてそこに建っている。そして通りゆく人々がそれに反応している。これは本来意図したスケール・素材・等々ではないのです、なんて言っている場合じゃない。それは全ての建築が構築されたら当然のことではあるが、より実験的に、自らが先導したプロセスを経たものには少々異なった魅力があるように思える。勿論、アナロジーの世界では自由に提案していた、或いは考える必要のなかった事項、例えば自身のスキルや購入できる材料のコスト等という制限は生じる。しかし最後まで即興的に変更を加え続けることも可能である。これらの駆け引き(例えば、物理と哲学)を通してつくることで、プロヴォカトゥール、またはアクティビストとなれるのか。コンクリートを打設し、レンガを積み、鉄を溶接し、重量の計算を行いながら、デザイナーと職人の乖離、流通のこと、アートとクラフト、つくられた自然、デジタル・ファブリケーション、装飾などについてとめどなく考えた。

そもそもこういう考え方に至ったのも、アメリカという存在が強くあったように思える。その広大な地を西、東、中西部と転々とし、フィッツジェラルドやケルアックを読み、イージーライダーを見た。そこの人たちは希望と野望に満ち溢れ、惨めで、理不尽であり、差別が根強くあり、平等について真剣に議論していた。アメリカン・ドリームを分かったような気もしつつ、やはり自分には全く理解できないものであると思ったりした。私が過ごした10年間は、今では日常化してしまったが当時はまだ数少なかったコロンバイン高校での乱射事件があり、9.11が起こり、就職面接を受けている真最中にニューヨーク大停電があった。希望と絶望の振れ幅が大きいなか、建築に求められる社会性を保ちつつも、イディオシンクラシーを否定しないものの強さにも圧倒された。
私にとって1:1でつくるプロセスというのは、原始的な欲求から始まり、物質性に対峙し、構造的に成り立たせ、突き放してその傍観者として抽象化することが繰り返される。恣意的であっても、結果は理論をもたないと成り立たない。そこで、即興性を損なわないpost-theorizingということを学び(それまであるべき建築的思考だと学んできたものとは逆だった)、材料を扱うことで直観的構造判断力とも呼べる、ある種のエンジニアリングが備わることを学んだ。


*1 ここで指すのは、実際に自らの手を動かし、それなりのリアリティを持った材料と工法による制作のことであり、スタイロで実物大の検討を行うことや、設計者・施工者という関係の上に成り立つ制作のことではない。

Bridge/Arch: 1940年代に存在した橋と同じ位置に架ける全長10mのアーチを、鉄板コンクリートのロの字型ユニット21ピース、計2トンを連結して制作した。液体のコンクリートが流し込まれる不織布の柔らかい型枠は引張力のみに抵抗し、一方で固形化したコンクリートは圧縮力に耐える。そのプロセスがそのままテクトニックな装飾として現れる。

もし建築をつくるという行為が、現代の材料とテクノロジーに直接的に関係しているとすれば、既存の材料やテクノロジーや形態に少しでも変化を加えたなら、結果として大きな影響をもたらすのではないだろうか。このような思いで制作を行い、以下の文を書いた。

If work is a tool for experimentation, then the process of the work might also be experimental. As physical elements are examined before and during the making, it is possible to reflect upon and scrutinize each design decision, procedure and methodology. Through working, it is my intention to challenge expectations and preconceptions, and to understand their consequences. Within these explorations my focus is on the balance of in-betweens, especially those of mass-produced and one-off, generic and unique, familiar and strange, logical and intuitive. I am examining what architecture might become.(高)

One-ton brick (in collaboration with Michelle Hartwell, Quynh Vantu, and Sorim Yoon)
編むようにレンガ壁をつくれたらという考えのもと練り、押し出し、焼いた、6つのパターンのレンガ。設計者がつくるというプロセスから組織的に距離を置かざるを得ない状況と、個々の陶芸家が専門性の面で関わりを制限されている現代において、それぞれの知識を出し合い、1トンの特別に配合された粘土から350個の規格サイズの軽いレンガを制作した。

MoMA/P.S.1 (with OBRA Architects): 現代アートセンターの中庭を計10枚のコンサーティーナ・シェルの曲面で覆ったインスタレーション。木製LSLのアーチはスティール製ブラケットやコンクリート塀に支えられ、鱗のような表面はポリプロピレン製のメッシュでできており、モアレや陰影を生みつつ風や雨を通す。(photo: OBRA Architects)

Residence in Long Island, NY (with OBRA Architects): プライバシーとコミュニティが両立する現代的な家族像を表すこの住宅(1400平米)は、村のように形成され6人家族に属する個人にはそれぞれ独立したパビリオンという「家」が与えられた。ティルトアップ・コンクリート工法による108枚のコンクリートパネルを敷地周辺部でキャストし、クレーンで吊り上げた。(photo: OBRA Architects)

Treehouse:建築は木のように、背景であると同時に前景にもなりうる。その中間的なものとして位置付けたツリーハウスは独立して建ち、幹の内部のような空間をもつ。地上2.5mから視点はランドスケープの広がりを捉え、振り返ると木の幹の表面が隙間から見え、上部のオキュラスが空と上部の枝を縁取る。

「1:1でつくる」を聞いて 伊藤孝仁

「1:1でつくる」という言葉は、どこか奇妙な響きがあります。
建築設計のすべての作業が最終的に「1:1をつくる」ための労力だとすれば、当たり前のことのようにも感じます。それでもこの言葉を用いたのは何故でしょうか。そこには、建築を思考するプロセスに対する問いかけが込められているように思いました。
レクチャーの中で紹介された作品の多くは、建築を構成する単位へのまなざしから生まれています。変形したコンクリートブロックや6つの特殊な穴のパターンをもったレンガなど、建築というよりはプロダクトに近いものかもしれません。
建築設計は通常、コンクリートの壁や木の柱といったあらかじめ用意された単位を前提に、単位同士の関係を必死に調整していく作業といえます。単位が要請する体系(構法)に従えば、1:500→1:100→1:50→1:10→1:1と徐々に解像度は上がっていきますが、デザインはその体系の枠組みからは逃れられません。
高さんの取り組みは、1:100の思考の前に1:1を経由します。単位自体をデザインの対象とすることで構法の枠組みから逃れようと試み、そこで手に入れた自由さ(と実験に費やしたクレジットカードの請求書)をもって、新しい建築へと向かうゲリラ戦です。そのスタイルは、アメリカやイギリスで建築を学んできた環境(大きな工房!)が大きく影響しているはずです。思考と環境の密接な関係を目の当たりにした時、学生達は何を感じたのでしょうか。大きな音を立てながら、汗を流して工具を操る学生を最近良く目にしますが、なんだか嬉しい気持ちになります。

高 佳音 Kaon KO
設計助教

1979 福岡生まれ
2003 University of Oregon 建築学部卒業
2003 OBRA Architects (NY) 設計事務所 勤務
2008 Cranbrook Academy of Art 修士課程修了
2012 Architectural Association visiting researcher
2015 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻 博士課程修了
2015 東京理科大学工学部第一部建築学科 設計助教

(写真左から3番目)