伊達の家 (photo: Anna Nagai)
伊達の家 (photo: Anna Nagai)
人間の主体性を取り戻す建築
人間の主体性が奪われている。さまざまなモノは複合され、どこからきたのか、また、どのようにしてつくられたのかもわからないような、組成不明のプロダクトとなり、われわれの生活を取り巻いている。もはやプロダクトを通して社会の構造を知ることは難しく、社会の仕組みを理解しようという主体性が奪われてしまっているように思われる。あらゆる情報に対して受動的にならざるを得ない社会は閉塞感に満ちている。そのような社会から人間の主体性を取り戻すために、建築に何が可能なのか。
建築の実践を通して人間の主体性を取り戻したい。そして、そのような建築を設計するための方法論として、建築のフラグメンテーション(断片化)を考えたい。建築をバラバラなモノに還元するように断片化させ、広域の環境との物理的な関係の中に、あるいは、過去から未来に持続していく時間の中に、ひとつひとつ再配置するように設計する。このときに空間の主体たる人間は、モノとモノの連関を日々再発見し、断続的に立ち現れるシーンとして受容しながら、身の回りの世界の成り立ちを理解していく。自分の手で直接つくり出したモノも、ありふれた身近なモノも等価に扱い、それらをブリコラージュ的に再編することによって、錬金術のように日常を持続的に更新するのだ。
〈伊達の家〉(2017)は、北西には有珠山や昭和新山、南は遠く内浦湾を望む豊かな自然に恵まれた環境である。100 坪ほどの敷地に対して、要望に沿って夫婦ふたりのための小さな住宅を計画すると、敷地の大半が余ってしまう。たとえば、大きな庭を生活の中心に据えるような案も考えられるが、北海道の中では比較的温暖な土地でも、冬は雪に閉ざされてしまうような場所ではリアリティを見出すことができなかった。そこで、鉄骨造の大きな建物を建て、その内部に必要な機能を備えた小さな木造の建物を建てるという、二つの建物が入れ子になった案を検討した。二つの建物は、それぞれ防水層と断熱層を担い、一つの住宅に求められる性能を、二つの建物が補完し合うことで担保しているという意味では、二つの建物が入れ子状に配されているというよりも、一つの建物の外壁や屋根を引き剥がすように解体した結果として、エレメントを構成するモノが自立して現れているといえる。通常は建築のエレメントとして複合化され、隠蔽されてしまう壁や屋根の懐が見えている状態である。この懐に見出された空間は、質としては内部でも外部でもない、どちらにも属さない第三の空間である。この第三の空間に面している部分は、仕上げなのか下地なのかを区別することはできず、両者のヒエラルキーは失われ、空間を占有するモノとモノとの隣接関係だけが浮かび上がる。住み手は、建築の環境性能に紐づけられたエレメントの序列から解放され、質の異なる空間を自由に行き来しながら、主体的に快適な場を発見していくのだ。
建築の実践を通して回復した人間の主体性は、先の見えにくい社会を生き抜くための知恵である。そして、そのような知恵を携えた人間の振舞いによって、世界の成り立ちを知り、自分たちの手に取り戻し、生き生きとした建築や都市を実現させていくだろう。(青木)
伊達の家 (photo: Anna Nagai)
伊達の家 (photo: Anna Nagai)
伊達の家 (photo: Anna Nagai)
「リノベーションから脱構築へ」を聞いて 岩澤浩一
青木氏がフラグメンテーション(断片化)と呼ぶ方法論は、建築という制度の解体への試みである。
建築全体が先ず存在し、そのなかに各空間やディテールが発生するのではなく、断片化により建築を構成する要素を「事物」として扱う。この「事物」の相関的な布置によって建築を発生させようとしている。
事物の布置にあたって青木氏のプロセスは緻密で慎重だ。
具象と抽象の間の1/20の模型(素材や部材の寸法が見えがくれするスケール)での検討を中心に据え、現場での判断を避け事務所に全て持ち帰る。
物の力と建設の手順からくる情動(比較的短期の感情の動き)に対して相対的に向き合うための判断なのだ。
その積み重ねにより生まれた建築は非完結の状態で漂い、人間に静かに囁きかける。どう生きるのか人間と対話する建築なのだ。
青木 弘司 Koji AOKI
建築家・青木弘司建築設計事務所
1976 北海道生まれ
2001 北海学園大学工学部建築学科卒業
2003 室蘭工業大学大学院修士課程修了
藤本壮介建築設計事務所を経て
2011 青木弘司建築設計事務所設立
2012年より武蔵野美術大学非常勤講師、東京造形大学非常勤講師、東京理科大学非常勤講師、東京大学非常勤講師を勤める。